私が運転士の見習だったのは昭和62年から昭和63年にかけて。
ホントに昭和の末期でした。
今回は指導運転士(教導という社局が多いのかな? このブログでは以下 師匠と記します)からの指示がほぼ無くなった、実務見習の後半の頃の話をしていきたいと思います。
運転士見習の初期の頃はそれこそ師匠に言われるがままに運転するだけなのですが、見習の後半になってくると当然ですがほぼすべてを見習が判断して運転します。
もちろん師匠からはアドバイスというか小言というかお叱りというか、まぁいろいろと言われ続けますけどね。
昭和の時代ですから、いまとは違っていろいろな“決まり”というか暗黙の了解事項がたくさんありました。
このサイトにも何度か書いてきましたが、例えば〇〇列車は〇〇駅にできるだけ早く到着させないといけないという暗黙の了解事項がありました。
帰宅する乗務員の利便性を考えて、少しでも早着させて他社路線への乗り換えを楽にできるように。。。みたいな。
さすがに昭和30~40年代ごろのような、ダイヤ上では先に出発する列車に乗り換えできるようにぶっ飛ばせ!みたいなことはありませんでしたけども、本来は乗換に走っても2~3分はかかるはずなのに、ダイヤ上1分後に出発する列車に連絡させなければいけない、みたいな不文律は残っていました。
ホーム上で交代のために引継ぎを行ったあとに乗務員室へ入ります。
そして列車を起動した直後にインターホンの呼び出し音が鳴り師匠が出ます。
簡単な会話のあと私に向かって
「車掌が帰宅中の乗務員に言われたみたいなんやけど、わかるよな?」
この時担当していたのは通称“帰宅電車”と呼ばれる多数の乗務員が帰宅のために乗車する電車で、前年に国鉄からJRに変わった路線に多くの帰宅乗務員が乗り換えます。
でもその時の私は“見習”という身分。
まさか見習がスタフに書かれている時間より速く運転するわけには、と思っているところに
「俺に恥をかかせるなよ」
という師匠の一言でぶっ飛ばすことに。
この当時の師匠と見習という立場を表す言葉に
「黒いものでも師匠が白だと言えば見習も白と言わなければならない」
っていうものがあって、学科見習中に教習所で教わるのです。
今じゃ信じられない事なのですが、昭和の時代はこれが普通。
まぁ見習としてはぶっ飛ばさざるを得ないというところですね。
いつもとは全く違う景色の流れ方に目が回るようなビビってしまうような、でも必死で飛ばして2分近く早着。
師匠からは
「まぁこのくらいで運転すればだれも文句は言わんやろう」
いまこんなに早着させれば間違いなく、文句どころか師匠も見習も乗務を外されるでしょうね。
この当時は操縦試験対策として教科書通りの運転を教えられるほかに、本務運転士(独車)になってから必要な様々な現場サイドの取り決めについても勉強しました。
私が所属していた乗務区のいまの運転士が知らないことを、見習中にいっぱい勉強させられましたしね。
現役の運転士の中には中途半端に昔のことを知っている人もいるでしょうけど、生半可な知識ですから危ないかもしれないですね。