職種がどんどん減っていった
私が入社した1981年当時は作業分担が明確に決まっていて、この作業はどの職種が行うとはっきりと分かれていました。
例えば踏切の遮断桿が折れた場合には、○○保安係が現場へ行って交通整理と遮断桿の仮復旧をしていましたが、今は保安係がいないので乗務区の助役が担当しています。
起動内の様々な標識類は××保安係が整備を担当していましたが、こちらもそのまま乗務区の助役が担当しています。
曲線ホームで車掌からは目視で乗降状態が確認できない駅には△△保安係がいて、各ホーム上で車掌に合図を送っていたが、数駅のホームを一ヶ所のモニターで確認して車掌へ合図を送る□□保安係となって人数が激減し、今では大半の曲線ホームは車掌がモニターを見て扉扱いを行うことで□□保安係もごく少数に。
結果的にラッシュ時間帯に車掌のモニター監視による扉扱いでは危険ということで、助役がラッシュ時間帯は立哨することに。
※保安係はいくつもに分類されていましたがここではまとめて書いています
昔はたくさんいた信号士。
信号所のてこ扱いが基本的な仕事で、列車運行管理システムが導入されていましたが運転指令から小さな信号所まで配置されていました。
多くの信号士の日課の一つに、分岐器の床板や車輪のフランジがレールと接する部分への塗油作業がありました。
また冬季は融雪機の設置を行ったりもしていました。
次第に信号士は管区駅に一人程度に減らせれていき、管区内の各駅のポイントの塗油作業を行ったり、管区駅長室で忘れ物を扱う立場へと変わっていき、今は車庫など列車運行管理システムで制御されていない信号所くらいしか配置されていません。
結果的にポイントの塗油作業や融雪機の設置は各駅の助役の仕事となり、改札業務の合間を縫って行うことになっています。
古い塗油器だと注油作業が必要ですが、こちらも各駅の助役の仕事となりました。
乗務員の合理化にも影響を受けた
昔の乗務職場には運転士・車掌共に予備勤務という仕事がありました。
遅刻した人の補勤、事故などによってダイヤが乱れ仕業通りに乗務できない乗務員の代わり、突発的な車両交換の要員などに備えて配置されていました。
私が運転士になったころは出勤時間順に、4:00、4:30、5:30、6:00、10:00、11:30、13:00、15:00、17:00と運転士・車掌共に9系統がありました。
その後徐々に予備勤務の仕業数は減らされていきましたが、乗務員の一日当たりの乗務時間を20%延長や残業時間の計算方法の変更と、乗務員の基本定数の削減が実施されるときに予備勤務は全廃。
今では乗務員の予備勤務はすべて助役にとって代わりました。
運転士や車掌が遅刻してくれば助役が自身の仕事を中断して乗務することに。
合理化の影響で助役の仕事が莫大に増えていきました。
一時的に助役の定数も増えたけど
さまざまな保安係が減少していくとともに助役の定数は増やされました。
ただし保安係のポストが2つ減れば助役のポストは1つ増やされる程度でした。
信号士が大幅に減らされた時は助役のポストはほぼ現状維持だったかな。
乗務員の大幅合理化の際には乗務区の助役の基礎数はかなり増やされましたが、その後どんどん減少されていき、昔よりは多少助役のポストは増加したかなという程度。
昔はクレーム対応は基本的に本社が行っていましたが、今では助役が行っており、クレームの主宅へ菓子折りを持って訪れたりもしています。
私は乗務区での助役は半年と短かったのでクレーム対応はしなくて済みましたが、頻繁にクレームを寄こす人の中には
「○○助役をうちへ来させろ!」
という変な指名をする人もいて、本来の仕事がまったくできない状態になったりもしています。
また私がいた会社では伝統的に車内の嘔吐物などの処理は乗務員は行わず、基本的には清掃員に依頼となっていましたが、清掃員自体も数が減らされたことで結局助役の仕事になっています。
車掌や運転士時代は嘔吐物があると無線を入れて、清掃員の手配をして終了でしたが
※新聞紙等を被せるくらいはしていましたが
今では車掌や運転士に呼ばれて助役がゲロ清掃ですからね。
ちなみに私がいた会社では助役は管理職ではなく監督職で、一般的な会社の呼称で言えば主任程度でしょうか。
管区駅長や乗務区長が係長クラスで教習所の所長でようやく課長クラスですから、助役なんて本当に下っ端の社員でした。