操縦試験をパスして運転士見習が終わると、いよいよ師匠が横についての運転から単独での乗務になります。
独車といった言い方をする会社もあるようですが、私が所属していた会社では“本務”という言い方をしていました。
私が運転士の本務となったころ、私が所属していた乗務区では運転士がかなり不足していました。
定年退職の方が多く、助役以上の監督・管理職に多くの運転士や車掌が充てられたためです。
運転士見習が終わった翌日は運輸局へ行って甲種動力車操縦者運転免許を交付されて、その足で動力車操縦者養成所(教習所)を経由して本社へ行き運転士への辞令交付。
そして所属することになる乗務区へ行き、今度は乗務区長らからの訓示を受けて終了となるはずが、運転士の出勤担当助役が勤務指定表をもってきて
「明日からの3日間だけでこれだけの仕業が空白になっているから、どれか一つでもいいから乗務してくれ!」
もうねぇ、明日から当分の間は一部列車が運休するんじゃないの?っていうほどに担当する運転士の指定ができていない。
私は振替で公休となっていたので、翌日の乗務を休日出勤で引き受けることに。
春の行楽シーズンに運転されていた臨時の優等列車の仕業でした。
私が運転士本務となった1988年当時は通勤路線であっても臨時列車の運転が活発で、特に学校の長期の休暇期間となる春・夏・冬の日祝をはじめ、秋にも多数が設定されていました。
運転士になって初めての単独での運転。
交代となるホームまではかなり緊張していました。
列車到着の2分ほど前には交代位置に到着ししばらく待っていたのですが、一向に列車が到着する気配がない。
交代時間を間違えたのかなと思い、何度もスタフと運転時計を見比べるのだが間違ってはいない。
2分近く遅れて列車が到着。
私が車掌時代に最も嫌いだった運転士が担当していました。
引継ぎの際にはいくら嫌いな奴だと言っても相手は先輩運転士ですから、私のほうから列車番号など必要な引継ぎ事項を言ったのですが相手は
「はぁ、上等でっせ」
この運転士はその態度も嫌いだし、とにかくメチャクチャな運転をするし、自分が勤務終了となるとき以外は遅らせても平気なところとか、とにかくイヤなおっさんでした。
2分ほど遅れて出発したわけですが、担当している臨時列車は途中の駅で最優等列車に抜かれるんです。
私が担当している臨時列車をダイヤ通りに運転しても後続の最優等列車は追いついてしまい、抜いていくときには数十秒遅れてしまうという無理やりダイヤを設定した感のある臨時列車。
さらに私が担当している列車は最優等列車に抜かれる駅での停車時秒は1分50秒。
暗黙の了解でこの臨時列車を担当する乗務員は早着させることになっていました。
※この時代はまだ暗黙の了解で早着させなければいけない列車が数本ありました。
とにかく速度超過すれすれでガンガン走りました。
※速度超過すれすれだったはずです(笑)
見習が明けた本務初日の、しかも初めて一人でハンドルを握っているのに、いきなりガンガンに攻めまくりました。
でも
どこからブレーキを掛ければATSに引っ掛からずに済むのか。
しかし制動距離を長くとるとガンガンに走ってきた意味がなくなり、時間短縮になんてまったくつながらない。
基本的な制動距離を求める簡易式の速度×速度÷20で導き出す距離を、そこから10%ほど制動距離を短くしてずーっと全制動を投入して運転していました。
緊張なんて全く感じることはありませんでした。
とにかくどれだけ時間を詰めることができるのか、その一点に集中して運転していましたからね。
本務初日は最も嫌いだった運転士のおかげで、緊張することなく攻めた運転ができました。
でも担当し終わった後はものすごい疲労感に覆われましたけどね。