阪神大震災が発生した時の乗務員の運用を他社の友人から聞きました
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阪神大震災が発生した時の乗務員の運用を他社の友人から聞きました

以前に運休区間が発生した時の乗務員という記事を書きましたが、これは短期間のうちに不通区間が復旧した場合のことを記事にしたものです。

半日から数日くらい不通区間が発生して運休した場合のことですね。

ただ私自身は数日間不通区間が発生したという経験はあるものの、数か月間の不通区間発生という経験はしたことがありません。

なので今回の記事は、阪神大震災を経験したその当時に乗務員をしていた友人に聞いた話です。

 

関西で最も大きな被害と長期間の不通区間発生といえば、阪神大震災時のJR西・阪急・阪神の状況です。

どこが不通となり復旧がいつだったのかなどは他のサイトに委ねるとして、乗務員はどのような状況でどのような勤務になったのかを書いていきます。

 

阪神大震災当時はまだ緊急地震速報というものがなく、地震を感じた運転士が自らブレーキをかけて停車させる以外にありませんでした。

送電はストップしているし道路事情も最悪な状態だったので応援要員が来ることはなく、駅間で止まった列車はとりあえずは旅客を車外へ出し、乗務員は近くの公衆電話から乗務区へ電話して電車はその場に放置し、数十キロを歩いて帰宅したなんて話も聞きました。

阪神間の鉄道は各社とも動かせるところは動かすといったスタンスで、通常の仕業表など意味を持たない状態になっています。

また自宅が乗務区からかなり離れている乗務員もたくさんおり、道路も寸断されている状態では出勤時刻を定めてもその時間に出社することもできません。

そこでしばらくの間は無系統状態で運用していたそうです。

とりあえず出社できた者から順に乗務してもらい、何往復したら帰っても良い、そんな状態だったと聞きます。

また運転時刻が書かれた運転士用スタフも無く、マジックで列車種別だけが走り書きされた紙片を持ち、出発信号機に進行を指示する信号の現示があればそれに従って進行する、場内信号機の現示通りに入場する、そんな状態だったそうです。

きちんとした乗務行路が定められていないため、乗務を指示する助役たちもすぐにミスを犯して〇時〇分交代の乗務員の指定を忘れてしまい、本来なら休憩できるはずの乗務員がしかたなくそのまま乗務を続けた、ということも頻繁に起こっていたようです。

このような状態だったので、緊急で他の乗務区所属の乗務員に応援に来てもらうといったケースもあったようです。

 

 

一つの路線の途中に不通区間があり、東西別々で列車の運行をしていた各社。

乗務区への出勤は難しいものの分断された路線へは徒歩で行けるということで、ほぼ専属で分断された路線ばかりを担当していた人もいたようです。

分断はされていても地震発生後2週間ほどで仕業表が出来上がり、徐々に落ち着いてはきていたと言っていました。

それでも不通区間が短縮されるたびに乗務行路が変更され出退勤時間が変わるので、それはそれで大変だったみたいですけどね。

徒歩で出勤して乗務することができる恵まれた人もいれば、中には乗務区に3~4日泊まり込んで乗務を続けては数時間かけて帰宅し、翌日また数時間かけて出勤して3~4日泊まり込む。

そんな乗務員や助役もいたそうです。

 

地震はいつどこで発生しても不思議ではない自然災害です。

でもどこで発生するのかが前もって分からないために、乗務員の運用などをあらかじめ作っておくこともできない。

車両の運用だってどうにもならない。

できることと言えば、線路や駅などの耐震化だけです。

今は震災時の運転を経験した友人たちも笑いながら話してくれるのですが、その当時は緊張感がずっと抜けきらない状態で仕事をしていたと言います。

そう思うと私なんて大した苦労はしていないなって思いますよ。

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